初代松原重太郎が昭和25年、沖縄駐留米軍関連工事の沖縄バックナービル水道施設改良工事の施工の為、沖縄に乗込んだ際に、日本軍が全滅したマブニの丘(現在の平和祈念公園)を訪れ、そこで第32軍司令官牛島中将と長参謀長の墓標が、人骨も散乱し、伸び放題のススキの中に2本立っているのを見て、あまりにも哀れに思い、また多くの戦死した仲間に対する思いと、苦労した3年間に及ぶ沖縄工事の記念に塔をつくることを発案した。これに大日本土木も賛成し、地元那覇市の生存者新嘉喜長佳氏などにも相談したうえ、まったくの奉仕作業として作業員を引き連れマブニの丘の頂上まで材料を運び着工しました。
そして昭和27年、約1坪程度台座の上に7尺の高さの塔を建立し、平和への夜明け、黎明の光が訪れる日を願い、「黎明の塔」と名付けたものです。
他のホームページなどでは牛島中将と長中将を祀った塔と記されていることから戦犯を祀ったものと批判されているものもありますが、故松原重太郎は荒れ果てた地に墓標2本では哀れと思ったものの、二人を祀った塔というよりも、戦争で共に戦った多くの仲間の冥福と、平和の訪れを強く願って建立したものであると語っておりました。我々はその思いを忘れないようにしたいと思っております。
昭和50年7月17日
沖縄海洋博覧会開会式の際、皇太子御夫妻(現在の平成天皇)による黎明の塔参拝が決まり、松原重太郎(右から2人目)と大日本土木高島六三郎氏が招待される。
(昭和37年に改築された現在の「黎明の塔」 )